聖書の中の令和

5月から令和元年が始まりました。

「令和」という言葉は昭和年代の人には馴染みやすいけども、平成年代の人にはあまりしっくりこない、というのを聞いたこともあります。

皆さんにとってはどうでしょうか?

実は「令和」は聖書の中にも出てくるということを知っていますか?

聖書の中の書物に人間の中で世界で一番知恵のあったソロモン王という人が書いた「伝道者の書」といsう知恵の書物があります。

ソロモン王はその知恵でイスラエルの国を治めて、国は繁栄しました。

他の国々の王達も富を彼の王国に捧げて、その街には金があふれていたとさえ言われています。

そんなソロモン王の書いた「伝道者の書」には人間の人生に関する知恵が書かれています。

彼の他の「箴言」という書物も聖書の中には含まれていて、それは世界中のビジネスマンに読まれている知恵の本でもあります。

その「伝道者の書」でソロモン王が彼の人の人生に関する知恵の集大成をまとめてこう書いています。

「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ(畏れよ)。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」(伝道者の書12:13)

どういう意味なのでしょうか?

神様の命令を守れ、というのは押しつけがましくて、「あれをしてはいけない!」、「これをしなさい!」と神様の操り人形のようになることと考えたりするかもしれません。

例えば、皆さんに子供がいたとして、その子が道路のそばでボールで遊んでいたとしたら、「道路のそばで遊んではいけません。ちゃんと公園にいきなさい。」と言うと思います。

子供は、「なんで?私に楽しんでほしくないの?」と考えるかもしれません。でも、あなたがそう言った理由はその子供が交通事故などに遭わないように、安全の為だと思います。

聖書にも「~しなさい」というようなことは書いてあります。でもそれは私達を束縛するためではなくて、私達が平和で、幸せな一生を過ごすことができるためなんですね。

聖書にはすべての命令はたった2つに要約できると書いてあるんです。

それは、神様を愛することと、他の人々を自分自身のように愛すること、だけなんですね。

聖書は神様は愛であるといいます。神様は私達すべての最善を願ってくれているので、彼の命令は私達の平和な一生を願って与えてくれたものなんです。

なので、神様の命「令」は私達に平「和」を与えてくれるということです。

皆さんの上に今日も神様の恵みと平安がありますように!

愛は感じる?それとも…選択する?

みなさん、こんにちは。

また暑さがぶり返してきましたね><!
まったく早く夏が終わって秋になって欲しいものです笑。

聖書の中で最も大切なものと言われている中で、恐らくもっとも誤解されているものがあります。

何だと思いますか?

それは愛だと思います。聖書には「神様は愛です」って書いてあるんですよ。

神様は愛を持っている、ではなくて、神様は愛です、なんです。
で?違いは何って思いますよね?それは神様の本質そのものが愛ってことです。

ところで何故ここでいう聖書の「愛」は誤解されていると思いますか?

それは現代の映画やテレビや色々なものの影響で愛というのは「感じるもの」ということで教えられているからだと思います。

でも本来聖書の言う本当の「愛」は「感じる」ものではなくて「選択する」ものなんです。

どういう意味?と思いますよね?

それは例えば、この人は素晴らしい人だし心が熱くなるから、愛したいと「感じる」から愛する!

ではなくて、この人には色々問題もあるかもしれないけど私はこの人を愛するという「選択をした」から愛し続ける。

っていうものなんです。

もちろん、心が熱くなることも、愛を感じることもあると思います。でも、本当の愛はそれらには左右されないということなんですね!

どうでしょうか?そんなのが本当の愛なら愛なんて面倒くさい、と思うかもしれません。

そうなんです。そういう時もあります(笑)。

でも、それでも愛し続けるという「選択をする」愛が本当の愛であり、実は神様が私達に対して持っている愛なんです。

聖書にはジーザスは神様だったのに私達を愛して、人になり十字架の上で私達の罪の罰を負い死ぬことを選びました。(もちろん彼は3日目に生き返ったのだけど)

ジーザスは神様で罪も無く十字架につかる必要はなかったんですね~。

でも、彼は私達に罪の赦しを与えて、永遠の命という、神様の子供になる特権を与えてくれることを「選択しました」。

この自分の命を私達のために捧げるという「選択してくれた」ことによって、神様の愛が私達は分かるんです。

あと本当の愛は誰も奪うことも、壊すこともできないものって知ってます?><

第2次世界大戦中のナチスの支配下で何百万人の人が殺された地獄のような強制収容所から生き延びた精神科医のヴィクトール・フランクル氏の言葉にこんなものがあります。

「あらゆるものを奪われた人間に残されたたった一つのもの、それは与えられた運命に対して自分の態度を選ぶ自由、自分のあり方を決める自由である。」

つまり、人間はどんな状況にあっても必ず「選択」することができるということです。
周りの何者も私達の「選択」を奪うことはできないんですね~。

愛したいと「感じる」感情や気持ちは移り変わりもするし、なくなるものでもあります。

私達が愛するという「選択」による本当の愛は誰も奪うことも、壊すこともできないんです:)

だから、聖書の教える本当の愛、つまり、神様の愛は強いものなんですね。

そして、ジーザスを信じる人の心にはその力強い神様の愛が注がれると書いてあります。

是非、今週もその力強い神様の愛をたくさん受け取って歩んでいけたらと思います。

みなさんに、恵みと平安がありますように。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」
(1ヨハネ4:10)

神様が愛を示した方法

みなさん、こんにちは!
連休は猛暑でしたが、まだ続くようですね。
秋が早くきてくれないかと思います笑

さて、聖書には愛についてたくさんのことが書いてあります。
でも、人間の愛についてではなくて、神様の愛について書いてあるんです。

愛についてたくさん教えているなんて、弱弱しいイメージを持つ方もいるかもしれません。

聖書の教える神様の愛は相手に与える愛です。
何も見返りを求めずに相手の為に与える愛が神様の愛なんですよ。

そんなのできるのか?と思うかもしれませんが、人間から出る愛には無理なんです。
だから、神様の愛なんですね。

みなさんは、他の人に愛を示す一番の形はどんなものだと思いますか?

プレゼントを贈ることでしょうか?仕事を休んで一緒に旅行に行くことでしょうか?
たくさん稼いで家族に楽をさせてあげることでしょうか?
いつも美味しい食事を作ってあげることでしょうか?

聖書には、人が自分の命を他の人の為にささげるよりも大きな愛はないと言っています。

結婚式の新郎新婦の誓いには心を打たれるものがないでしょうか?
何故でしょうか?
それは自分の残りの人生を相手の為にささげるという決断を示すからだと思います。

(戦争なんて無い方がいいですが><。。。)

人々が国民や愛する家族を守る為に命をささげて戦場に行くことに心を動かされることがあるんではないかと思います。
何故でしょうか?
それは彼らが自分の命を人々の為にささげるという決断を示すからではないでしょうか?

聖書には、

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。(ローマ5:8)

と書いてあります。

もちろん、イエスキリストは死者の中から生き返りました。
でも彼は一番大きな愛を十字架の上で私達が負うべき罪の代償を私達の代わりに負うことで示してくれました。

それは彼を信じる人が罪の赦しを受けて、永遠の命を持つためです。

自分の命を他人の為にささげることは、誰にでもできることではないです。

だから、聖書の教える神様の愛は弱弱しいものではないんですね。

むしろ、力強く、私達を見捨てない愛なんです。

今週も恵みと平安が皆さんと共にありますように!