S.Sさんの体験談

「神の愛はあなたにも」 (S.Sさん)

私とイエス様の出会いは、私が小学3年生の時でした。借住まいから脱出する為、父が持ち家計画を立て、その費用に少しでも役に立ちたいと考えた母が、十字架に鎖を取り付ける内職をしており、そのイエスキリストの磔(はりつけ)刑上の姿を見た事から始まります。

幼心に「かわいそうだなぁ」と思いながらも、こっそりとその内の1つをカバンに忍ばせて学校の友達に見せびらかせていました。

ある時、当時を想い出した母が「お父さんは私が働いたお金が『家の瓦一枚分だな!』なんて言ったのよ。本当に悔しかったわ。」と冗談とも、本音ともつかぬ口調で話していた時のことが思い出されます。

そんな父も念願の家にいたのは2年足らずでした。42歳の若さで他界してしまいました。心臓弁膜症でした。
葬儀の時、中学校の音楽の先生が「ジャム詩集」を下さり、その中の1分に聖書の言葉があったのです。2番目の出会いです。

3番目は友人との人間関係に悩んでいた時に書店で見た聖書を購入した時のことです。文語体だったので良く理解できずにいた為、紛失してしまいました。勿体ないことをしました。
そして決定的な出会いは、先にイエス様を信じた妻の真剣な祈りです。

ある日、私は、イエス様が私の為に死んでくださった事がはっきりと分かるようになったのです。この感覚は説明の仕様がないのですが、私の中にあったわだかまりが「ストン」と落ちるのを感じたのです。

その後、洗礼を受け、もう本当のクリスチャンになれたぞ、子供達と家内ともずっと仲良くくらしていけるぞ、と思ったのもつかの間、そんな事はなく、これから本当の人生の戦いが始まったのです。洗礼は、神の国へのほんの入り口でしかありませんでした。

様々な試練が訪れ、つぶされ、自殺してしまいたいくらいの苦しみを味わったことがありました。でも、その度に神様の御手は私に伸ばされていたのです。

過去にも、2,3歳の頃に、葛飾区に流れる新中川に落ちて、着物を洗う浮舟の底にへばりついていたのを通りがかりの若者に助けられたり、学生の頃50ccバイクに乗り土手から1回転して転落しても傷を負わなかったり、社会人になり、ストレスで十二指腸潰瘍で吐血し、緊急入院してもわずか19日で手術もしないで退院できたり、家内と次男の乗ったハイエースが赤信号無視のベンツに衝突され横転大破したにも関わらず、かすり傷1つも負わなかったことも。

私の人生、家族の一人一人に神様の護りの手がいつも伸ばされているのです。
この文章を目にしてくださったいるあなたにも神様の手はかならず伸ばされています。何故なら、神様はすべからく人々に愛の手を、どのような人にも伸ばされているからです。あなたの今までの人生を振り返ると神様の護りがあったことに気づかされる筈です。

いかかですか?ほんの少し振り返って神様の御手を確かめてはいかかでしょう。
必ずあなたにもあります。ずぐそこに!